落語家 露の新治さん
2006年5月13日 西本願寺鹿児島別院【ハートフル大学】での講演より
 人間の値打ちは中身ですな。人間をまっすぐに見る眼を養うことが、自分を大事にすることにつながると思います。年齢、出身地、国籍、皮膚の色、目の色、髪の毛の色、人種、みんなたまたまのことでございます。それはあなたのことですが、あなたの責任ではないことです。
 あなたの責任はあなたの中身であり生き方です。人に対する態度や言葉づかい、ものの考え方、どんな仕事をするとか、どんな物言いをするとか、そういうことをあなたの責任というんです。でもそうでないことで人からとやかく言われるいれれは一切ありません。
 しかし、かくいう私もそれで人をいじめた経験が多々あります。小学校の時、クラスに髪の毛がちぢれた女の子がおりましてね。私はその子に「おいちぢれ毛、ちぢれ毛」と言うて泣かしてました。もちろん先生は怒りましたよ。「ちぢれ毛言うたらあきません。立ってなさい。反省しなさい」と立たされました。
 でも私は立たされても反省なんてせず、開き直るだけでございました。まだ現象を現象としてしか見ていないからです。そのちぢれた根本に何があるか。実は何もない、単なる体質なんです。髪の毛がちぢれたことはその人の責任とは関連がありません。そこに人権を大事にしよう、同和地区に対する偏見や部落差別をなくそうという同和教育の意味があるんですよ。
 私は同和教育の先生に教えてもらいました。「ちぢれ毛にちぢれ毛って言うて何がわるいんですか」と聞きましたら、「あんたのその言い方が悪い。まず、そもそもちぢれ毛を褒めてないでしょ。言葉というのは口から発した文字だけではなくて、顔の表情から表れる全体的な表現です。ちぢれ毛は不細工、欠点だというメッセ−ジをあなたは届けています。ではちぢれ毛は欠点でしょうか」とその先生は言いました。もちろん違います。ちぢれ毛は単なる体質、あるいは身体的特徴です。それを欠点であるかのようにおとしめたことが不当な分け隔て、すなわち差別なんですよ。
 彼女はそれを受け入れる必要はなかった。すべての差別をはね返すたった一言、「それがどないしてん」と言えばよかったんです。どうして彼女はその簡単な一言が言えず、泣き寝入りせなあかんかったのでしょうか。数が少なかったからですよ。
 髪の毛がちぢれてるのは、黒で直毛が多い日本人の中では少数派です。そうすると髪の毛が茶色の人やちぢれている人は、単なる多数少数とは思われへんのですわ。直毛が普通でちぢれ毛は変というように受け取られてしまうんです。いわゆる数の力ですな。世の中というのは数の多い方が幅きかしまなんのや。
 それに、この「普通」という言葉が落とし穴なんですな。辞書で引いてみると、「あまねく通じる」という意味です。あまねくというのはすべてにということですよ。実際すべてに通じてるなんてことはありません。外国に行ったら、髪の毛がちぢれている人間がたくさんいる国がありますよ。そこではちぢれている方が「普通」やと思いますわ。
 わかりますか。髪の毛のちぢれ具合で人間の価値は上がりもせんし、下がりもせえへんのです。それを自分自身がはっきりと正しく認識し、堂々と「それがどないしてん」と言えばそれでいいわけですよ。そう言えないのは小数派やからです。
 昔の先生はダメでした。同和教育、あるいは差別をなくそうという人権運動がなかったら、そういう視点を教えてもらってなかったんです。だから「かわいそうに、この子の髪の毛がちぢれているから悪口言われるんや。こら、そんなこと言うたらあかん。かわいそうやろ」と言います。
 これは余計悪いですね。「髪の毛がちぢれているから悪口言われる」と言うのは、その原因は髪ん毛のちぢれ具合にあると言ってることと同じなんですよ。違います。髪の毛がちぢれてるのは、その人の責任でもなんでもないことです。
 今の同和教育のええ先生なら「この子の髪の毛がちぢれてんのは事実やけど、この子の責任とは関係ないやろ。体質やろ。君の髪の毛まっすぐやな。けどそのために何か努力をしたのか。関係ないやろ。君は体質でまっすぐやし、この子も体質でちぢれてる。それだけの話。人間の髪の毛なんて色も形もバラバラや。百人おったら百通りやで。そやのに、それでいいとか悪いとかごちゃごちゃ言うのは不当な分け隔てや。それを差別や言うて、みんなでなくそうとしてるの。あんたも差別やめな」と言うてくれますよ。これなら子どもでもわかります。
 そんな体質などで、あなたの値打ちは決まりません。じゃあ何で決まるのか。同和教育、「人間の値打ちは中身」とたった一言で教えてくれてますよ。この言葉を知ってる人は多いでしょうけど、本当にそう思ってる人はどれだけいますか。
 確かに今の世の中はゆがんでいます。実際は人間の値打ちは中身だけでは判断されません。けれど、どっちが正しいかは明らかですよ。人権というのは、すべての人間が笑顔で生きていけるようにするために編み出された、ものの考え方やと思います。
高校二年生の頃、私より背の高い同級生から、身長のことで「君の身長何センチや」とバカにされたことがありました。今の私なら一言、「それがどないしてん」と言ってやるんですが、当時の私には言えませんでした。なぜなら、私も人に同じことをしてたからです。自分より低い人に、「まだ俺の方が勝ってるわ」と優越感を持ってました。
 そんな私が自分より背が高い人にバカにされて、「人間の値打ちと身長は関係ない」などと調子のいいことは言えません。このことからわかると思いますが、される差別をなくすには、する差別をやめてたらよかったんです。そうすれば「関係ないやろ」と言えたんです.差別するから差別されるんです。
 じゃあ、する差別とされる差別はどう分けるか。人からされる差別は彼差別といいます。自分が自分にする差別。自分をおとしめることを称して劣等感、コンプレックスといいます。
じゃあ人にする差別を何というか。私は「加差別」と言っています。
 彼差別をなくすためには、加差別をやめていなければならない。人に対して不当な分け隔てをしてるかどうかを省みてください。「自分はこうやけど、あの人はもっと悪い」と、下見て暮らせの性根で生きてませんか。それをしてる限り、自分自身が解放されないんですよ。
 下見て暮らせお性根で生きてる人というのは、真ん中をくりぬかれて芯がない缶詰のパイナップルと一緒ですよ。自分に芯がないので、他人と見比べて「あいつよりはましだ」と優越感を持つ。そうではなくて、自分からしたいことを見つけて、どう生きたいかをはっきりさせなあかんのです。
自分の中に芯を、「自芯」を持ちましょう。自分の人生は自分が主役。隣りの人の人生はその人が主役と、認め合うのが基本的人権の確立です。
 人生の主役は自分だと胸を張っていれば、「あれよりはまし」という優越感にしがみつきません。それを手放せる人間になった時、世の中からあなたの分だけ加差別が減るんです。差別をなくすというのは、他の誰でもないあなた自身が抱いている加差別心をなくすことです。
 ところが、誰もが自分を当事者とは思わへんのです。自分のことは棚に上げてしまいます。選挙に行ってない人が投票率低いと言う時代ですよ。そんな時代だからこそ、人権というものを考えなあかんのです。
 それを学ばしてもろうて,もんなが笑顔でいきていく世の中にした方が得でしょう。
なぜならば、あなたも私も無数の確立をくぐり抜けて、みんなに願われて生まれさせてもろうた「宝のいのち」です。多くのいのちから願われて生まれたという誇りを大事にして、今度は願いに生きませんか。

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