お母さん、私ね、あなたが突然亡くなって、悲しくてどうしたらいいのか、のたうちまわっておりました。そんな私に、ご法要でお聞かせいただいた『御文章』。
「・・・・・・されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども・・・・・・ 」。
 生まれて初めてお聞かせいただいた『御文章』は、私に向かって「無常の風」が吹いていると仰せられているのです。「ハッ!」としました。
 私は、今までどんな風を感じて生きていたのだろうかと。
 あれから二十年近く経ちましたが、いつも仏前に座してお念仏していたあなたの姿が浮かんできます。
 その頃の私は、仏さまを疑い、背き、悔るような気持ちでおりましたから、あなたに対して「どうして神仏に頼るそんな弱い生き方をするのか」と批判したことがあります。
 あの時、あなたは「二人の子供(私と弟)が尊いものを仰いだり、どんな小さい事にも感謝できる心豊な人になってほしいと思っているの」と、優しくほほ笑み、うなづいていましたね。 でも、私は仏さまを拝んだぐらいで、そんな心情になれるなんて信じられませんでした。
 でもね、お母さん、あなたが亡くなって、分かったことがいっぱいあるの。
 どんなに大事に育てられてきたか、ようやく気付かされました。
 あれからね、私ね、恥ずかしいけれど、学校の先生をやめて、お坊さんにならせていただいたの。
 今は、目に見えない喜びをたくさん感じています。
「お母さん、これでいいですか」と仏さまの前でお話すると、どこかで「いいのよ」と
阿弥陀如来さまのほほ笑みとともに、あなたの声が聞こえるの。
 こんな幸せな喜びに出遇わせていただいたのも、あなたのおかげです。
「ありがとう! お母さん」。
(立命館慶祥高校講師 清水恵美子師 「ないおん」掲載より)
それぞれの人生にそれぞれの邂逅があります。まさしく「ご縁」と受け取らせてもらい仏法の中にその意味を味わっていきたいものです。
親鸞聖人の著、「教行信証」の最後の部分に、記してある
「・・・もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁とし、信楽を願力に彰し、
 妙果を安養に顕さんと。・・・」のお言葉が心に響きます。
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