本年6月、母方の伯父が亡くなりました。最後は、緩和ケア病棟で過ごし満92歳での往生でした。見舞い、葬儀、満中陰と続く別離の中に多くの大切な問いをもらったと思います。
 火葬が終わり集骨の時、その骨のかけらの中に焼け残った小さな金属片を発見しました。十数年前、伯父が足を複雑骨折し手術を受けた時、補強金属として骨に固定されたものでした。結局、その金属片は、骨壷の中に入れませんでした。しかし家族の中でも思いは様々であったようです。還骨法要の後、それぞれの胸に去来したのは・・・、
 「苦しみ無き世界に往生したのだから、娑婆の病気・怪我の記憶の断片を入れなくてよかった・・・」あるいは、「晩年の十数年間、安心して普通通り動けたのは、その金属片のおかげだから老父の懸命に生きた証として一緒に入れた方がよかったのでは・・・」。
 小さな金属片が、見る角度・距離そして、その人との縁の深さにより、違った意味を帯びます。正解はないと思います。大切なことは、お互いが考える姿勢をとることです。
施眼とは、仏の智慧を恵まれることです。しかしそれは、完成品を受け取り利口になることではありません。無常の いのち を生きる私が、さまざまな縁を通じ、自らを振り返る中に、より良き生き方を問い求めていこうとする姿勢に転ぜられていくことです。
 先日、高校の先生方といろいろなお話をする機会がありました。今の高校生自身のこと、あるいは就職を取り巻く環境のこと等お聞きする中で、こんなことばが頭に浮かびました。
「随処に主となれば、立処皆真なり」 中国、唐代の禅僧である臨済義玄のことばです。
『いつでも、いかなる場所でも、そこでしっかりと主体性を持っていれば、どこにいようとそこが真実の場所(すばらしい所)だ』 というような意味です。
 私自身、自分の立っているところから外ばかりを見つめ、不平不満を口にしているのではないか、もっと内側を見つめ、そこをよりよく変えていく努力をしているだろうか・・・。
あらためて振り返ることでした。いろいろな人に接し、お話を聞いていくことの大切さを痛感します。
 笑顔で鏡を覗いたら、鏡の顔も笑ってた。怒って鏡を覗いたら、鏡の顔も怒ってた。人間も鏡のようなもの。 自分が笑って向かうなら、相手も笑ってこたえよう。自分が怒って向かうなら、相手も怒ってこたえよう。 「当たり前のことだ」とは、実行していうことだ。 自分の欲望や本能が解放された立場からものを見よ、といわれても、なかなかそういかないのが私たち凡夫です。そうかといって、凡夫だから、できないものであると投げやりになっては、いのちと人生に何の意味も無いことになります。実はそのような、悲しいあり方をしている私たちの本当の姿を見透かして、照らし出してくださって、阿弥陀如来が、永いあいだ思惟に思惟を重ねて、どのようなものでも、つまり、すべてのものを目覚めさせて仏にまでさせると、はたらきどうしの南無阿弥陀仏のお念仏となりたもうたのです。
 昭和7年、作詞され発表された詩です。この詩は、色の違いを超えてどの花もすばらしいとうたっているのです。いろんな色のチューリップが咲いていてきれいであると感激するのもありますが、どの色もみんなきれいであるということが大切です。つまり、色に上下がないのです。赤・白・黄色、その色のちがいに違いに優劣、差別がありません。みなそれぞれ個性のままに輝いていることが、等しくきれいとうたっているのです。それはまさに、お浄土の蓮華にそっくりです。
 最近、あるテレビのクイズ番組で、釈尊が「すばらしい」という意味のほめ言葉としてよく用いたもので、日本の食べ物をあらわ言葉となっているものは何かという問題がありました。答えは「善哉(ぜんざい)」です。まさしく よいかな  でしょう。
なるほどと思いつつ、しかし現在 よいかな よいかな といえる事があまりにも少なくなってきているような気がします。
 仏教では 縁起 ということをその基本的な考え方とします。すなわち物事は互いに相よって成り立っているということです。簡単な、当たり前のことですが、私達はそのことをどれほど大切に捉えているのでしょうか。
 地球温暖化問題でも相変わらず、自国の利益を主張しあいます。ただ、いろんな利権争いに勝利したとしても、その土台である地球そのものがだめになれば、自国も他国もありません。また、グローバリゼーションという名の基準、本当にそれにあわせていくだけででいいのでしょうか。何時以来でしょう「正直、誠実、地道」というような言葉を押しのけ、「結果、成果、要領」というものが幅をきかせるようになったのは。早晩そのような社会がどのような道をたどるのか、自分だけ成功しても、利益を得ても、よって立つところ(他)が崩壊すれば何もかも失ってしまいます。
 今一度、釈尊が何を持って善哉(よいかな)とおっしゃっておられるのかそれぞれの胸に問い直していくべきではないでしょうか。
「宗祖降誕会」 とは、親鸞聖人のご誕生を奉祝慶讃する法要のことです。
第21代明如上人は、親鸞聖人が誕生された承安3年4月1日を、太陽暦に推歩(換算すること)して5月21日とし、明治7年から降誕会を勤修されました。
現在、本山では5月20日には「降誕会園児のつどい」が、本願寺派保育連盟制定の「幼児のおつとめ」の次第に基づいて行われています。また逮夜法要では「論議」を用いた「無量寿会作法」が修せられています。論議とは『浄土三部経』からテーマを選び、その論題を問答形式でつとめるユニークな法要です。翌21日午前には、宗門関係学校の学生生徒により、宗祖降誕奉讃法要(昭和37年制定の音楽法要)が修せられています。
また、慶讃行事として法要の余韻の残る総御堂では、雅楽献納が行われ、重要文化財の南能舞台では、祝賀能が催されています。国宝飛雲閣での茶席もまた、降誕会に限っての恒例行事であり、毎年、多くの方々の楽しみの行事となっています。
 宗祖降誕会とは、宗祖親鸞聖人の誕生を奉祝慶讃する法要と先にも述べましたが、それを機縁にお念仏に出遭えた喜びと、生かされて生きる幸せをかみしめるご縁でもあります。
ぜひ、降誕会のご勝縁にお遭いいただき、共に喜びを味わわせていただきたいものであります。
安楽(あんらく)は、心身に苦痛がなく、この上もなく楽な状態をいう日常用語です。
休息用のひじかけ椅子を「安楽椅子」といったり、助かる見込みのない病人を、苦痛なく死なせることを「安楽死」といって、社会的に問題になったりします。
仏教では、「無量寿経」に「その仏の世界を名づけて安楽という」とあるように、安楽は阿弥陀仏の極楽浄土のことをいいます。
安楽国,安楽仏土,安楽浄土、または安養浄土など、さまざまな表現がされていますが、みな阿弥陀仏の世界のことです。また、禅でも安楽法門というのがあり、身は安良かで心楽しく行えるざぜんをいいますから、そこに至るには、なかなかの修行ではないはずです。安楽とか極楽という世間的な快楽が充ち満ちていて、そこで安楽にくらすように思う人がいますが、果してそうでしょうか。
「浄土和讃」はいいます
   安楽浄土にいたるひと
   五濁悪世にかえりては
   釈迦牟尼仏のごとくにて
   利益衆生はきはもなし
供養とは、死者などの霊を慰めることの意味で一般に用いられていますが、もともと「供養」はインドの言葉で「プージャナー」といい「尊敬する」「崇拝する」という意味です。それが仏・法・僧の三宝、つまり仏教教団に対して衣服・食物・薬品・財物などを捧げ、尊敬すべき対象を養うことになりました。
 供養とは、進供資養の意味で、色々な種類があります。そうして仏教では不殺生の立場から、礼拝の対象へ水、華、香、灯火などを供えることになりました。
 現在では、仏教本来の意味がずいぶん歪められて使われていますが、残念なことです。
「渡る世間に鬼はない」・「世間体を気にする」・「世間の風は冷たい」・「世間並み」
世間という言葉は、このように一般社会でよく使われている日常語であるが、もとは仏教語である。『世間』は、サンスクリット語「ローカ」の訳語で、「路迦」と音写し、「世」とも「世界」とも漢訳される。
原義は「場所」という意味で、生命あるもの同士が相依って生活する空間的な広がりを示している。その世間は、山とか河とか大地としての世間「器世間」と、そこに住む生きとし生けるものとしての世間「衆生(有情)世間」とに分類されこれを二種世間と呼んでいる。
仏教で世間とは、移り変わり、壊れゆく、迷いの世界である。早い話、現実、この世のことであり、俗世間なのだ。そのような俗世間を、超越した、仏の世界を「出世間」という。世の中に出てりっぱな地位になることを「出世」というが、この出世は、出世間を略したものである。
「世間虚仮  唯仏是真」
聖徳太子の名言である。現象世界は仮のものであり、ただ仏のみが真実であるという、仏教の世界観をよく表している。
ただ、真宗におきては、仏(阿弥陀仏)の真実を仰ぎ照らされることにより、この世間を生き抜くに大きな意味が与えられることを忘れてはならない。
永代経とは、永代経という名のお経があるということではありません。永代経とは、亡くなられた方などをご縁にして、財物を進納することによって、永代にわたってお寺で、お経が読経されることをいいます。浄土真宗のお寺は特定の方々によって護持されるのではなく、多くの門信徒によって支えられています。門信徒の方々が、故人への篤い想いを
「永代経懇志」という形に示すことによって、聞法の道場としてのお寺は護持され、そこで読まれるお経は永く人々の心のよりどころとなり、みちびきの光となって人々を救い続けています。こうして、永代経懇志はお寺を護持し、永代にわたってみ教えを伝えていくという尊い実を結んでいくのです。このように、永代経懇志によってみ教えを伝えるお寺を護持し、教えに遇わせて頂くということは、亡くなられた方の真実の願いを実現することでもあります。
 浄土へ生まれて清らかな悟りの身となられた方は「お寺が永代に続きますように、そしてそこで説かれるみ教えをみんなが聞いてくれるように」と願っておられます。その意味で永代経進納を機縁として、あなたが法を聞き、阿弥陀如来さまのお救いに気づかれるならば、それはあなたの大きなよろこびでもあり、またお亡くなりになられた方々の、およろこびともなるでしょう。
(中央仏教学院講師 鎌田宗雲師 「ないおん」掲載より)
私は、俳優の緒方拳さんが大好きです。彼が数年前に『恋慕渇仰』という本を発行しました。
その中に「今日感会、今日臨終」という中国の古い言葉を初めて知ったときに、
「厳しい、殴られるような感じの言葉だ」と感激したと綴っています。
「言葉から殴られるような感じを受けた」と言う、緒方拳という俳優の感性の豊かさを感じます。 飽食という言葉がありますが、なにもかも鈍感になっているような現代に、殴られるような感じの言葉に出会ったという、俳優の豊かな感性にほとほと感動しました。
生きることのすべてが、もう二度とない、生涯におけるただ一度だけの出会いだから、この出会いを大切にしたいという意味の言葉でしょうか。
 この本の副題が「一期一会」です。
一期一会は、千利休の弟子の山上宗二の『茶湯者覚悟十体』の言葉といわれます。
一生に一度しか会う機会がない不思議な縁が一期一会です。人生のどのような出会いも、大切な出会いであるといつも受けとめていたいものです。
と、詩人・八木重吉が詩っています。
八木のこの問いに、どれだけの人が答えを出すことができるでしょうか。
この詩から蓮如さまの「白骨の章」の一節を思い出します。
「さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみそのこれり。あわれというもなかなかおろかなり」のところが心に響いてくるのです。 人は得難い命を恵まれて、その一生をどのように過ごしているでしょうか。
 鎌倉時代の吉田兼好が『徒然草』の三十八段に、「名利につかわれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ」と、愚かしい生きざまを批判しています。
『徒然草』が世にでてから何百年が過ぎたでしょうか。
 時代や環境が変化しても、人の生きざまはあまり変わっていないように思いますが、どうでしょうか。 私に厳しい声が聞こえてきます。
「今一度、得難い命を恵まれて、生きていることを、今一度見直すべきでないか」と、蓮如さまが私に問いかけているように思えます。
 四月は、お釈迦さまが生まれた花祭りの月です。お釈迦さまが伝えてくださった尊い
教えは、今の私に何を伝えてくださっているのでしょうか。
この月は、とりわけ考えてみたいと思うのです。 緒方拳さんが感激した今日感会を自らの喜びとして、今が今生の別れと、どこまでも今の出会いを大切にしたいものです。
そのことに気付かせてくれるのは、み仏の教えしかありません。

重誓偈じゅうせいげ」に「衆の為に法蔵を開き、広く功徳宝を施す」とあります。
功徳とは勝れた結果を招く功能のことで、その功力は、世俗的な善行為と宗教的なものとに分けられ、曇鸞どんらん大師(七高僧の一人)は、純粋な功徳とは真実功徳であると説かれました。
まことの徳行は、阿弥陀さまから廻向されたものだけで、その功徳の力によって、生かされ生きねばならぬと受け止めさせてもらわねばなりません。
世の中、毎日を得だ損だ生活をしておりますが、本当の得はこの如来さまの『功徳宝』をいただいて、何が本当の「徳」かをしっかりと見極め日常生活の中で本当の「得」をさせていただくことです。物質上の得は集合離散、損耗の繰り返しだけですが、心の中の徳は積み重ね、貯えられて心豊になるものです。


夏の甲子園では、選手たちが白熱した試合を見せてくれます。甲子園に出場することは、選手たちには悲願であり、大きな夢が実現した姿なのでしょう。マスコミも出場校に対して「悲願達成」「悲願成就」と、この悲願の大連発です。そのほか、悲願の言葉は、選挙に当選したい悲願、志望校に入りたい悲願、戦争中には敵国に勝利する悲願等々と、無数に使われています。
それれの悲願は、実に、私たち人間が求めてやまない欲望であり、その達成です。それは人間に所属し、人間の心を表す言葉です。だから、たとえ悲願といっても、その人だけに、あるいはその人たちだけに通用する心です。すべての人に通用する心ではありません。

それに対して、仏教で用いられる悲願という言葉は、元来「仏・菩薩が衆生の苦しみを救うために誓われた願のことで、特に阿弥陀仏の本願をさす言葉」といわれて、どこまでも私たち人間の苦しみを、自分の苦しみとして同悲・同苦する仏の自他平等の心を表しています。それは仏に所属する言葉です。
そのかぎり、この悲願という言葉は、自分の欲望が満足することを生きがいにして生きている私の言葉ではなく、むしろ、そういう自己中心的な私の生き様を問いただして、自他平等の仏の世界に目覚めようとする仏の心を端的に表現している言葉なのです。