毎日のように、耳を塞ぎたくなるような事件が起こっています。
やはり、社会を構成する私たち一人一人が大切なものを失いつつあるのでしょう。
 先日読んだ本の中に、音を研究しておられる学者さんの短い文章がありました。
そこには耳に聞こえない音域(倍音)のことにふれられ、倍音の存在は、あたかも私たちのいのち が支えられている仏の存在と重なるというようなことが述べられてありました。そして、そのことは自身の生き方に大切な示唆を与えてくれていることも書かれてありました。
仏法を聞かせてもらい、身を謙虚に見つめるとき、「俺が俺が」を離れ、おかげさま、おたがいさま、という生き方がわずかでも出来て行くのではないでしょうか。

慈光精舎の鐘の声 煩悩具足の響きあり・・・
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