昨年、10月31日〜11月1日にかけ1泊2日の旅程で来る親鸞聖人750回大遠忌法要関連行事の本願寺展に行ってきました。
北隅組(姶良郡・霧島市地区の西本願寺寺院組織)内の4ヶ寺のお寺さんと共に大型バス1台で出掛けました。場所は、福岡県太宰府にある九州国立博物館です。ただ、当日は午前中、天皇陛下がご覧になるというので閉鎖、午後2時から一般開放でした。その混雑たるや相当のもので、遠くから見えるふすま絵や掛け軸はともかく、細かいものは、人の頭をかき分けるという困難さ。後で展示パンフレットをゆっくり見るという有様で・・・、
しかし、かくも盛況であるということにある意味嬉しいところもありました。
その日のお宿に着いたのは、予定より遅れること1時間半ほど、それでもおいしい夕食を頂き、温泉に入り、次の日への英気を養うことでした。
さて、翌日は、今回のもう一つの目玉、妙好人みょうこうにん *「六連むつれじまのおかるかる」さんゆかりの地を訪ねることでした。下関の港から六連島往きの連絡船にのり30分ほど、はるばる来たぜ六連島、さかまく波を乗り越えてであります。
11月1日、夜8時頃やっと帰り着きました。強行軍の1泊2日でしたが、普通ではなかなかゆけないところ(六連島など)を見られ、有意義な時間でした。
 これから2年あまり先、親鸞聖人750回大遠忌法要について本山への団体参拝が始まります、具体的な計画が決まりましたら、寺報にて皆様に参加募集のご案内を差し上げたいと思います。


 最近は多くの方が車を使ってお参りに来られます。そこで時々、駐車場の塀や門の支柱に傷が付いていることがあります。ところが残念なことに、ほとんどの場合「ごめんなさい」と名乗り出てくることはありません。
 こんな所にも、見つからなければそれでいい。要領のいい者が勝ち。あるいは人にも物に対しても自分ではなく相手の方に非があるという自己中心的なものの見方。そのような考えに覆われる今の世の空気を強く感じます。恥ずかしいという概念もいつの間にか変質してしまったようです。
 「無慚無愧のこの身」という言葉を親鸞聖人はお使いになりました。常識も分別も持っている、自分のことは自分でちゃんと処することができると思っている私。その私が仏法に照らされたときはじめて、人に恥じ・天に恥ずる心なき身であったと知らされるのです。しかし同時に、なぜこの私にお念仏の教えが与えられていたかを知らされることでもあります。
 お聴聞とは、知識を増やすことでも現実を離れた理想を聞くことでもありません。み教えを頂いた私の生き方が変わっていくことであり、その功徳が私のまわりにも及んでいくことです。
  無慚無愧のこの身にて
  まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば
  功徳は十方にみちたまう
         (悲歎述懐讃)

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